■大殿堂建設までの経過

 

 生長の家愛知県教化部会館(大殿堂)建設の声が上がって30年、ようやくこの度その実現をみるに至った。

 

 最初は、昭和30年代の初め、建設のための献資活動が自発的に行われたことから始まり、教化部道場や各地の誌友会に「感謝箱」が置かれた。

 

 昭和45年頃から建設の気運が盛り上がり、昭和47年には、建設委員会が設置され、建設委員も委嘱された。

 

 しかし、本格的な動きは、光明化運動の活発化に伴って手狭になったのに加え、建物の老朽化が一段と進んだ昭和54年からで、建設計画を具体化し、建設資金の献資を組織的に行うために「第一次建設委員会」が発足した。

 

■組織的献資活動始まる

 

 献資は相愛会、白鳩会、青年会が一体となり、約250の合同組織にそれぞれ目標額を決め実施されたが、5年経過した昭和59年になっても献資目標を達成することはできなかった。

 

■第二次建設委員会の発足と土地取得

 

 昭和59年6月になり、隣接地取得、建設設計など具体的建設計画を策定・実行するとともに、献資目標を達成するために、組織を一新した「第二次建設委員会」が発足した。

 

 献資目標達成のために、相愛会、白鳩会、青年会の合同組織によるそれまでの献資活動に変え、相愛会、白鳩会、青年会別の目標を定めて活動することになった。

 

 また、隣接地の取得については、関係者の祈りと努力により3回に分けて、合計1080.43㎡取得した結果、建設予定地は今までの土地を合わせ1692.65㎡となった。

 

 昭和58年10月4日  441.48㎡

 昭和60年12月24日  480.75㎡

 昭和60年12月27日  158.20㎡

 

■設計は公開設計競技

 

 建物の設計は、日本建築家協会東海支部の協力を得て、公開設計競技に実施することになり、審査委員会(委員長、飯田喜四郎氏)を設け広く募集したところ、48件の優れた作品が集まった。審査の結果、小場瀬令二氏(当時豊橋科学技術大学)の作品が最優秀作となり、小場瀬氏により実施設計がなされた。

 

生長の家愛知県教化部会館 落慶祈念 P14~P15より抜粋