【今月の教化部長の言葉】令和5年4月

愛知教区教化部長の就任の挨拶

教化部長 大塚 和富

 

 合掌、この度教化部長の定期異動に伴い、愛知教区に赴任しました大塚和富です。 愛知教区の幹部・信徒の皆さまと人類光明化運動・国際平和信仰運動に真摯に取り組ませていただく決意です。

 

 

 愛知教区は私にとりまして「 生長の家 」とのご縁をいただき、青年会活動に邁進して信仰姿勢と光明化運動の喜びを体得することができた、大変ご恩のある教区であります。

 

 

 はじめにあたり略歴を紹介させていただきます。 合掌造りのある岐阜県白川郷に生まれ育ち、中学まで過ごし、高校は下宿生活をしながら岐阜県笠松町にある岐阜工業高校電気科で学び、卒業と同時に愛知県春日井市の変圧器製造工場に就職しました。 2年目の20歳直前に慢性腎炎の病気となり、医師からは一生涯完治しないと宣告され、自宅療養を言い渡されました。 幸いなことに叔母(父の妹)が生長の家に入信しており、早速、岐阜県教化部の練成会に参加を勧めてくれました。 宗教に全く感心が無かった私は、〝参加すれば病気が治るかもしれない"との叔母の言葉に望みを持ち、4泊5日の練成会に参加しました。 練成会では「 人間は神の子である 」との根本真理を教えられるとともに、聖典『 生命の實相 』を読むことを薦められました。 練成会終了後は、腎臓病は安静と食事療法が大切とのことで、岐阜県白鳥町の病院と名古屋市の名大付属病院にて、それぞれ合わせて1年2ヵ月の入院生活を送りました。 その入院中に『 生命の實相 』をひたすら読み、心境の変化が起こって感謝することの大切さを実感して感激し、一生涯完治しないと言われた慢性腎炎が消えました 。以来、腎臓病の再発はなく今日に到っています。 勤務先を長期欠勤しましたが会社のご厚意で仕事に戻ることが出来ました。 生長の家の真理に救われた私は、昭和42年頃から愛知県教化部の青年会行事に参加するようになりました。 会社勤めをしながら青年会活動を展開する喜びと使命感を実感した私は、青年会の役職を次々経験させていただき、約10年間、愛知教区で青年会活動に邁進いたしました。 最終的に当時の青年会愛知県支部執行委員長(現教区青年会委員長)、光明実践委員会議長を努めさせていただきました。 その中で大変印象深い思い出が二つあります。 一つは当時の青年会の購読誌『 理想世界 』『 理想世界ジュニア版 』を全国で百万部に拡大する運動が提起され、当時青年会愛知県支部に割り当てられた拡大目標(確か5万2千部)を一致協力して達成でき、全国で100万部に到達できたことです。 もう一つは、谷口雅春先生の講習会が愛知県体育館で3月に開催されたとき、講習会場が受講参加者で満員となることを瞑想する神想観を、青年会の皆さんと体育館前のコンクリート上に座り、大変な寒さの中ではありましたが、2ヵ月間毎朝5時10分から30分間実修させていただきました。 その結果、講習会当日は本当に会場が満員となり、皆さんと喜びあったことです。 その当時に一緒に活躍してくださった青年会の皆さんが、現在も光明化運動に携わって頂いている方もおられ、大変心強くまた嬉しく思っている次第です。

 

 

 

 その後、昭和54年1月に当時東京の生長の家本部に奉職した後は、色々の部署にて業務を担当して学ぶと共に、本部講師の辞令をいただき、全国各地に出張して会議や、講演会等に出講しました。 恐れ多かったのは愛知の先輩である三浦晃太郎本部講師が参議長を立派につとめた後を継ぐことになり、国際本部を東京・原宿から山梨県北杜市に〝森の中のオフィス"として移転する大きな転換期に携わらせていただきました。 国際本部以外の業務では、教化部長として広島教区7年10ヵ月、長崎南部教区3年、福岡教区延べ7年10ヵ月、それぞれ努めてきました。 今回福岡教区からの転任ですが、今までの教化部長の経験を生かし、愛知教区を最後の赴任地として教勢拡大発展に邁進する覚悟です。 4月には喜寿を迎える齢となり、名古屋市天白区原の賃貸住宅マンションの教職舎に住まわせてもらい、地下鉄・鶴舞線にて愛知県教化部に通勤して、健康に留意しつつ、精進努力します。 皆さんどうぞよろしくお願いいたします。