【今月の教化部長の言葉】28年7月

万物さかんなり

 

 

         教化部長 濵山正幸

 

 本紙『 大愛知 』の六月号に「 生き通しの生命 」と題して、「 人間は肉体にあらず、死んでも死なない永遠生き通しの生命である 」と書きました。

 一方、人生の先輩諸氏からしばしば耳にしたことは「 肉体の老いは待ったなしに訪れてくる。 若い時には簡単にできたことが、できにくくなったりまたできたとしても時間がかかったりするものだ 」と。 それ故に「 年はとりたくないのだ 」と。 しかし年をとるということ、これは万人共通であり、現象的には避けられるものではない。

 常々思っていることですが、生長の家の熟年層世代の方々は総じて生き生きとしている。 とりわけ組織の幹部、なかでも地方講師として誌友会等に出講している方々は、殊の外と思う。

 

 

 万緑やなおも自然のさかんなり

 

 

 ところで私は、書店があるとチョットした時間でも入るのが習慣になっている。 時間は生命であると考えるが故に、読書はその時間を有益に活かすポジティブな生き方だと考えるが故にである。

 そんな訳である時、山﨑武也氏著『 人生に老後という名の時間はない 』( PHP研究所刊 )と題する本に出会い、迷わず購入した。 誰にでもあれ、老後なるものが訪れると思っていたが「 老後という時間はない 」というのだ。 読み進み、そして納得である。 中でも「 積極的に年を取る 」と題する記述には、次のようにある・・・・・・・・・、

 

 

 若いときがあるから、年取ったときがある。 若いときだけを認めて、年取ったときを認めたくないというのは、この世の条理に反する。

 ( 中略 )

 若いときであれ年を取ってからであれ、人生に対しては積極的に取り組んでいく必要がある、年を取ることを嫌がっても、それは無駄な抵抗でしかない。 刻一刻と年を取っていく。 途中で休もうと思っても、時間の流れは一瞬たりとも猶予してくれることはない。

 ( 中略 )

 年を取るということは、生き続けているということにほかならない。 それは生を享受していることであり、歓迎すべきことと言ってよいのではないか。 感謝こそすれ、避けようとするべきことではない。

( 同書 四十五~四十七頁 )

 

 

 さてここ最近、月初めに開催している「 龍宮住吉分社月次祭 」に熟年世代の方々が多数参加されるようになって、月次祭の雰囲気が一変。 活気に溢れる月次祭となっている。

 熟年の皆さんは月次祭の後、会員等の祝福祈願。 その後は白 ・ 相合同で「 熟年ムスビの集い 」である。 この集い、陰陽調和のムスビの相が現われていて和やかにして良い行事だと思う。

 この熟年層の世代を対象とした取り組みに関して、機関誌『 生長の家 』平成二十八年一月号掲載の白鳩会の運動具体策には、このようにある・・・・・・・・・、

 

 

 教区連合会は七十歳以上の幹部 ・ 会員を対象にした「 熟年者の集い 」を開催し、会員相互の交流を密にし、熟年者が自然と共に伸びる運動への理解を深めるよう工夫し、人類光明化運動 ・ 国際平和信仰運動の一員としての喜びを共有する。

( 同書 四十九頁 )

 

 

 我が愛知教区は去る一月、圧倒的大盛会の講習会を実現した。 今後も生長の家の発展に貢献出来ればと熱望している。 それだけに、信仰に筋金の入った熟年世代の方々の理解と一層の挺身をいただけば、「 自然と共に伸びる運動 」の実現モデルを、此処 ・ 愛知教区で作り上げることができると思う。