【今月の教化部長の言葉】平成27年9月


神・自然・人間の大調和実現へ

 

教化部長 濵山正幸

 

 生長の家の信仰生活 ・ 信仰運動の中心となる教義は、大聖師 ・ 谷口雅春先生が昭和六年九月二十七日に啓示を受けられた「 大調和の神示 」であり、生長の家ではこの神示を中心的教義として今日まで宗教活動を展開してきている。 その神示とは・・・・・・・・・、


 

 汝ら天地一切のものと和解せよ。 天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。 ( 後略 )


 

 生長の家は現在、「 神 ・ 自然 ・ 人間の大調和を実現する――自然と共に伸びる運動 」を展開している。 この運動の根本にある考え方は、先に掲げた「 大調和の神示 」に示される真理である。 この真理が国際社会の多くの人々に伝わり、また共有されるようにならなければ、自然破壊や地球温暖化、さらには気候変動等の諸問題は解決に向かうことができない。 それどころか、今後ますます深刻化することが危惧される。

 ところで今年の梅雨、従来にも増して激しく降った処があり、一部の地域では記録的な降雨量となった処もある。 昭和を代表する作詞家、故阿久悠氏はその著書『 清らかな厭世――言葉を失くした日本人へ 』( 新潮社刊 )の中で、「 梅雨がシトシトでなく、絹糸のようでもなく、日本文化は崩れる 」と題して、次のように述べている・・・・・・、


 

 ( 前略 )六月、七月の雨はシトシトで、あるいは、絹糸のようにやわらかく天から地へと紗幕を下ろすと感じる。 そして、八月になると、もうシトシトと思う人はなく、ザアッと地面をはね返して過ぎたと思ったら、からくり舞台のように一瞬に虹までかかったと書く。

 シトシトとザアザアは動態の違いではなく、季節への信頼のようなもので、どこかで安心する。 こういう安心が日本人を微妙に、そして、やさしく育てていた。

 それなのに、今年、いやここ何年もそうだが、シトシトが裏切り、ザアザアどころかドウドウと降りつづく荒々しい梅雨で、人は季節さえ疑うようになった。

( 同書 一六九頁 )



 人は季節さえ疑うようになったとは、自然と人間の隔絶である。 産業革命以来、人類は自然界を道具や手段として捉え、そこから欲しいものはどんどん奪い、不要なものは廃棄し、また邪魔なものは破壊するという生き方を続けてきた。 その結果が、今日の世界の状況と言えるのである。 このような考え方と生活のあり方を変えなければ、人類の、またすべての命あるものの未来は、決して明るいものとはならない。

 私たち日本人は、東日本大震災と原発事故に直面した後、自然を破壊して何も恥じることのない生活のあり方を、深く反省した筈ではなかったか。 喉元過ぎればではないが、今日原発再稼働に舵を切ろうとする、そんな空気が漂うのはどうしたことか。

 生長の家の御教えを生きる我々は、九月二十七日「 大調和の神示 」が天降った日を迎えるにあたり、欲望優先 ・ 利益優先を至上とする人間中心主義から、「 すべては神において一体 」「 善一元の神への信仰 」を、揺らぐことのないものとしたいのである。



  名月や 此処に映れと 自然界



 分かりやすく言えば、信仰生活とは単に神に感謝するだけでなく、自然界のあらゆるものに感謝しこの感謝の心の現れとして、万物すべての命を礼拝し、もって神 ・ 自然 ・ 人間の大調和を実現して行こうとするものである筈である。 さらに言えば、「 大調和の神示 」の教える処を、より具体性をもった信仰運動として展開しなければならない、と言う今日的要請がある訳です。