すべての人に先祖が
教化部長 濵山正幸
自宅近くの小高い山の一角が、黄色に変化しているのに気づいた。枇杷の実が色づきはじめているのである。
枇杷の実やわれが主役と主張せり
誰であれ、枇杷の木を見ればその視線は黄色く熟した枇杷の実に行きがち。しかしその枇杷の実は「枇杷の木」の果実であり、その実が熟するには根が大地の養分を吸い上げ、葉は太陽の光を光合成することによって、木全体を生かす。その結果、実が熟する。
しかし、黄色く熟した枇杷の実に視線が向かえば向かうほど、根や葉の存在は忘れられがちとならないか。これら根や葉の存在なくして実の成長はない、ハッキリしているのである。
この関係を端的に示すコトバとして『霊供養入門』には、次のように書かれている。
大地は神様、根は先祖
幹は両親、子孫は枝葉
枝葉に花咲き、よき実を結ぶは
親に孝養、先祖に供養
(同書 三〇六頁)
このようなことから、自分と先祖との繋がりに思いが及んだ。つまり、根や葉が無くては植物の成長、果実の成長は無いのと同じ様に、ご先祖無くしては自分の存在はないのだと、黄色く熟した枇杷の実が教示するように我が眼に映ったのである。
さて、一般に言うところの先祖供養に関して申し上げれば、人が人としてこの世に生まれた瞬間、その人には必ず先祖が存在するということ、この事実は何人も否定することはできない。そしてまた、世の成功者に共通するのは、先祖を大切にする供養の心の篤い人だと言われ、またこのような人は何かと幸運に恵まれるとも言われたりする。この先祖供養の心と供養の実践について、大聖師・谷口雅春先生著『新版 人生を支配する先祖供養』に、このように書かれている………、
時には「供養の心さえあれば供養は要ら ないではないか」という人があるが、併し 心があれば、行いが自然と現れることにな るのである。祖先を大切にする心があれば、 自然にお祀りを大切にする訳である。心が あれば何もしなくてよいというのは、心が ないという証拠である。(同書 五十七頁)
今年もお盆を迎える時節。この時期になると遺伝子が目覚めるのでしょうか、自然に先祖のことに関心が向かうようです。おそらくこれは、自分の生命とご先祖のいのちとが、一つに繋がっていることを奥底の心が承知しているからだと思うものです。
また、供養ということで言えばご先祖の霊に対する供養とともに、忘れたり怠ったりしてはならないものに流産児の供養がある。現世に生まれ変わる必要がありながらも、はからずもこの世に生を受けることができなかった流産児。この供養には、とくにその父母となるべき男女性が愛と懺悔の心をもって、供養することが大切であります。
このような中、生長の家では毎年八月十七日から十九日にかけて、京都府宇治市にある生長の家宇治別格本山宝蔵神社において盂蘭盆供養大祭が執り行われます。
この大祭においては、生長の家総裁・谷口雅宣先生が斎主としてご奉祀いただき、白鳩会総裁・谷口純子先生のご臨席をいただいて荘厳なる御霊供養が行われます。
この大祭、霊魂にとっては得難い浄化の機会となる。先に述べたとおり、全ての人々には先祖がある。それ故に、供養の心篤き皆様一人一人が施主として、ご先祖の霊に対しては感謝・報恩のまごころをもって、また流産児の霊には愛と懺悔の心をもって霊牌の浄書を、とお勧めするものです。
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